「ソーシャルネットワークサービスの使い方」と「本物」について

ミクシィに入会したのは2004年12月。

ソーシャルネットワークサービス(SNS)としては3つ目くらいだったと思う。

 

現在、その中で毎日確認しているのはミクシィとFacebookくらいだろうか。 (今でもその他にいくつも入ってはいるがほとんど使ってはいない) そして私はSNSを「ソーシャルネットワークサービス」の名前の通り 結構有効に使えていると思う。

 

2/12長野市のトイーゴにて「長野市民平和の日のつどい」が開催される。 その中で、マイミクでもある写真家の村田信一さんの写真展示のお手伝いをすることになった。

どんな内容をお手伝い「した」、とか「している」と言うのは今回の内容からは少し逸れるので割愛することにして、まずは村田さんとのSNSでの出会いから。

 

(ちなみに展示は2/12長野市トイーゴ15時頃〜 ほかにイベントは17時〜19時まで開催されています。お近くの方はぜひ。私も会場にいます。)

 

私がミクシィに入会した頃は、まだメンバーもここまで多くなく 自分の探したい人に出会える確率も高かった。

私のプロフィールにあった「アフリカ」のキーワードから、村田さんが私を見つけてくれてそこからマイミクになった。

そして、村田さんとは同郷でもあった。

 

そこから現在に至るまで、実際にお会いしたりネット上で交流を続け 先日は松本市の浅間温泉にある「玉の湯」のギャラリーでの展示に関しても色々お手伝いした。

 

それ以前にも、松本市周辺で村田さんの写真展を開催出来ないかと 何度もあちこちの施設や方々と連絡を取ったり、お会いしたりして来た。

 

仕事でもないのに、なぜ私はこんなに村田さんのお手伝いを(勝手に)しているのだろう?と考えた時に、彼が「本物」だからだと、昨夜色々を考えている中改めて気づいた。

 

先日、村田さんの記事が毎日新聞に掲載された。 そのタイトルは「戦場カメラマンをやめた」だった。

 

そう、村田さんの写真は今話題の「戦場カメラマン」だった。 思わず目を背けたくなるような戦場の悲劇の数々。

そんな写真を撮っていたそうだ。

 

だがある日、彼は疑問を持ち始めた。

 

そして今も、「戦場」へは行くが「戦場」の衝撃的で悲劇的なものを撮るのではなく、「戦場」と呼ばれる場所にもある「日常」にカメラを向けるようになった。

人々は暮らし、生きており、そこには喜びもあり、輝きもあるのだ。 そしてだからこそ感じられるリアルな悲しみも。

 

彼とマイミクになったあと、図書館へ彼の写真集を探しに行った。 「戦争という日常 世界の紛争地帯を往く」と言う本と 「バグダッドブルー」があった。

 

彼と初めて会ったとき、色々な話をした。 主にアフリカの話だった。

 

アフリカがメディアで語られるとき、いつも取り上げられるのは 「かわいそうなアフリカ」「貧困のアフリカ」「野生の動物のいるアフリカ」などの、ごくごく一部のステレオタイプなものばかりだ。

本当のアフリカはそんな言葉だけで括れるものではなく、もっともっと色んな側面のアフリカがある。

 

人の生きる力の力強さと美しさ

 

そんな話をして盛り上がった。

 

彼が戦場カメラマンを「やめた」のも、アフリカの話と同じなのだと思う。

戦場と呼ばれている場所にあるのは悲劇だけではない。

そこには、なんてことはない小さく輝く日常もあるのだ。

それは私たちが送っている日常と何ら変わりなく。

彼らは私たちなのだ。

別に特別な人たちなのではない。

 

それを感じられたとき、戦争や紛争と言うものの悲しみを 少しだけ自分に近いものとして感じられるのではないだろうか。

どこか遠い遠い国の、自分とは全く関係のない世界の話、としてではなく。

 

でも、そんな理屈や言葉なんか実はどうでも良い。

彼の写真を見てもらえば良い。

その美しい空の色と風と人々の輝きを。

そしてそのすぐ向こう側にある悲しみを。

 

2/12は私が信じている「本物」の写真を、ぜひ見に来てほしい。